イントロダクション
〜 エリスアイランドのウェブサイトから
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パービン家系図の登場まで
2001年は春の出来事である。上に転載したウェブ·サイトが北米のネットに登場した。Genealogist
(系図学者)、ルーツ探索、愛好者を自認するものはもちろん、一般家庭の家族員を含めて、それぞれがコンピューターのある部屋に集い、我が家のルーツを確認して熱狂した。アメリカは人種の坩堝、200年の年月を遡るだけで、国民の全てが移民人の末裔である。もちろんアメリカ·インヂアンと呼ばれた原住民を除いての話である。いずれの家も源をたどれば外国人だという事は、その姓は言うに及ばず、家族の日常の言葉から食事、礼儀、作法に到るまで、全てその家族が引き継いだカルチャーを代表しているということ。当然いずれの家庭にあっても、その出身地、宗教、言語のアイデンテチーを認識、家族を代表するものは自分の出身の知識を豊富に記憶しておく事を持って、身だしなみとする。だが家庭によっては、特殊な事情によって、過去の記録に疎い所もある。 自分の過去を証明する公式な記録を、時に触れ、折りに触れ探し求める事になる。 American
Family Immigration History Center
による 1世紀前の旧い記録を公開したサイトが巷の家庭に大変な旋風をもたらせた所以である。
今ぼくが「山口」の姓を持つ日本人がどのくらい、アメリカに移民してきたのか興味を持ったとする。上のウェッブサイトを利用すれば、簡単である。登乗船者名サーチをクリックして、ellisisland.org のサイトのホーム·ページに用意された Search
Immigration Records のサーチ用紙の、 Last
Name に Yamaguchi とタイプするだけでよい。First Name
はそのまま空白にして、サーチのボタンをクリックする。10秒もかからぬ間に159人の山口姓の日本人が1892年から1924年までの間にエリス島に入港したというリストが示される。First
Name
を調べてこれぞと思われる山口某をクリックすれば、その人が何時、何処から、どの船に乗って入国したのか、又付き添いの家族が居た場合、全員の名前まで探し出す事が可能なのだ。口承で伝えられてきたご先祖の名前を、公式に残された記録の中に発見する事は意義あることである。因みに、コンピューターに転写されたといわれる「シップ·マニフェスト」というのは、船長が保管した乗船者名簿の事、厚い大形ノートブックに乗船者の出身地、年齢、行き先の住所、など詳細に記入されていた。同エリス島のウェブサイトではマニフェストの写しを記念に欲しい人の為に注文も受け付けている。
ぼくの妻、Heidi
は Ohio
州 トレイド市で生まれたロシア系のユダヤ人である。母親はロンドン生まれの英国人、第二次世界大戦中、ロンドンに駐屯していた妻の父親と国際結婚したのだが、その父親の方の系図が良くわかっていなかった。口承によると、彼の父親、即ちHeidi
の祖父は15歳の時ロシアから単身、渡米してきたことは語り継がれていたが、正確な年月、船名、出身地名は不明であった。渡米後は
Max Pervin の名前で呼ばれた。Max
には7年遅れて渡米してきた Joseph
Pervin 、八つ年下の弟がいた。Joseph
の渡米の年月日、出身地名も明らかでなかった。妻とぼくが初めにしたことは、当然、Max
と Joseph の名前を ellisisland.org
のサイトでさがすことだった。上記で紹介したとうり、Last
Name に Pervin
をタイプして、サーチをクリックしてみたところ、9人の Pervin
姓の乗船者名簿が表示された。そのうち二人がロシアから入国しているのだが一人は女性、後の男性は名前も年も違い Max
とも Joseph でも有り得なかった。結局、二人とも Pervin
の姓で入国していなかった事になる。これは後で知ったことではあるが、当時の米国、移民局の役人は、入国してくる外国名の移民者の本名を正確に記録する事ができず、(つまり正確に聞き取り、書き込むことができず)、適当に英語の姓名に書き直した例が沢山あると言うことだった。それはそうだろう、仮に日本人が外国籍の人たちの名前を聞き取って、カナにして書き込めば、本名とは区別の付けようもない、名前になった事と同じ話である。
話が少し本道から外れるが、ぼくは高校と大学を芝、白金にある「明治学院」で学んだ。同学院は、ミッシヨン スクールで 例のヘボン式ローマ字を編纂した、ヘボン博士の創立である。例えばこのヘボン博士の姓である。本来のスペルは英文でなんと書かれたのか。お分かりになるだろうか。ぼくには、全く見当がつかなかった。Hepburn
だったのである。今の日本人なら「ヘップバーン」と書くはずである。あの「ローマの休日」の女優、オードリ·ヘップバーン や、「アフリカン·クイーン」のキャサリーン·ヘップバーンも同じ姓である。小麦粉をメリケン粉といった時代があった。メリケン粉のメリケンが American
だと気がついたのは、ぼくが渡米してからである。メリケン波止場のメリケンも同じで、American
Harbour だろう。同じ事がアメリカ人の役人にも言える。Pervin
は英語で「パービン」だろうが、ロシア語で「パービン」と発音されたとは先ず思えない。ぼくと妻は Pervin
をいろいろアルファベットを換えて探してみたが、Max
と Joseph はとうとう見つからなかった。
運が良かったのは、Max
と Joseph
の両親二人とほか3人の兄弟、姉妹が後年移民してきている事実だった。特に Heidi
が 「べラ 叔母さん」 と呼んでなついていた Heidi
の父親の叔母に当たる女性が、Heidi
を我が孫のように可愛がり、折りに触れ、時に触れ、昔話をしていたという。それによると、彼女達がエリス島に入港した時、移民局の役員は彼女の家族を「パーバック」と呼んだという。そこで、ぼくらは
Max
と Joseph を諦めて、べラと彼女の兄妹、それとべラの両親の移民の記録を探す事にした。困ったのは「パーバック」が、どんなスペルだったのかである。Pervak,
Perveck, Pervack, Pervac
等いくらでも有るのを、思いつくまま試してみたが、うまくいかなかった。そして夏が来た。妻と息子のアーロンは西ヨーロッパにバケーション出かけ、ぼくは一人で留守番の役を言い付かり、エリス島のサイトと取り組んでいた。わずか32年間に2千万人の移民がニューヨーク湾港に上陸しているのである。いかにコンピューター化されたとはいえ、姓名も分からない5人のロシア人を2千万人のリストから探す事は容易な事ではなかった。しかし運は思いもかけぬところで開かれるものである。ある暑い夏の夜、疲れた眼を休めるために、ぼくはステレオのボリュームを全開にして、リビングルームでワーグナーのオペラに聞き入っていた。癖になっていたパーバックのスペリングを頭に浮かべながらである。ワーグナーは、Wagner と書き バァーグナーと発音する。ドイツ語はW
が V と倒置するからである、と考えながら、、、ふと Pervak
を Perwak
とかいても 「パーバック」になる事に気がつぃた。まともな固有名詞になる。まさかとは思ってみたが、東ヨーロッパの諸国は言語学的にドイツ語の影響が少なからずある事を考え合わせて、エリス島のサイトで確かめてみる価値があると思った。不思議な話だが、キーボードを叩く自分の指が震えるのを意識した。予感である。間違いないという確信があった。確信に間違いはなかった。PCのモニターに12人の
Perwak 姓の名前が表示されたのだ。一番上の
Beila Perwak は間違いなく、Heidi
の 「べラ 叔母さん」である。ニューヨーク湾に入港したのは1923年9月6日、出身地は
ロシア国 Litiu
市となっている。到着の日と、出身地を見ると、べラと同じ日に同じ所から来た Perwak
が計5人いた。下記のとうりである。
パーバック姓 5人のシップマニフェスト
後は簡単だった。年齢を見比べて、58歳の Leissa Perwak が 父親、54歳の Scheindle Perwak は母親、Beila Perwak が上の娘で Dwoire Perwak は下の娘、Liber Perwakは息子、到着日の月日と同日の年齢を計算して、Liber Perwak は Max Pervinの弟、Joseph Pervin の兄であるべき筈だ。
ぼくは興奮した。早速、同サイトのリンクをクリックして、5人の「シップ マネフィスト」を開けた。登乗船者名簿は1ページ(左半分)と2ページ(右半分)にまたがっている。1ページによると、乗船の船名は
"SS FINLAND" 、ドイツ領港 Hamburg
を1923年8月25日に出港したこと、乗船者の姓名、性別、年齢、家族員との続柄、国籍、言語、宗教、出身地名が詳細に記入され、2ページには渡米後に予定された寄留先、出生地および渡米以前に住んでいた町の名前等が記録されてあった。それによると、5人の寄留先はOhio
州、Toledo 市にいる Joseph Perwin 宅、間違いなく、Max
の弟である。ぼくは夢中になって、Heidi
の親戚達にメールを打った。Joseph には一人娘の Bernie、現在80歳に手の届く高齢では有るが、 Heidi
の父親と伯父の従妹に当たる女性がいた。バーニーの話では、彼女の父,
Josephが常日頃、語っていたところによると、彼の両親と兄妹の5人をロシアから呼び寄せたのは、実は 「俺だったんだ!」と、口癖にしていたという。今それが証明された事になる。バーニーもまた驚喜した。何処の家族も同じものである、つまらない事を自慢しているのではない。家庭内の機敏な事情が読み取れる興味深い自慢話しではある。
ここで暫く、Heidi
が子供の頃から親しんできた、彼女のおじいさん、おばあさん、叔母さん、伯父さんの実名を紹介しておかなければなるまい。エリス島ウェッブサイトに発見された姓名は、なるほど Heidi の親族では有るが、姓名の
spelling
からでは、他人としてしか見えない。「べラ叔母さん」はその中でももっとも実名に近い。Beila
の i は l の間違いだろう。i をl に書き直せば Bella -
べラになる。難しいのは 次女の Dwoire である。W を Vと発音すべきならば 「ドバー」 ロシア語の数字 2 である。二番目の娘で文字どうり、次女であるから、Dwore
は実名だった可能性はある。しかし彼女は渡米後、Dora
あるいはDoris
の名で親しまれている。ひいおじいさんは、明らかに、船中での書き間違いである。Leissa
はイエデシュの名前として例がない。「レイブ」が本名である。この時代のユダヤ人はヘブライ語とイエデシュのふたつ名前があった例が多い。Leib
は Yahuda
とも呼ばれた、イエデッシュの名で知られていた。複雑なのが、leib
の息子 Liber である。仮にMax が長男だったならば、Liber
は次男であるが、終生 レオンの名前で呼ばれてきた。Liber
が 何故 Leon に変わったのか謎である。Leib Yahuda の妻 Shandell はJenny
Rosa のヘブライ語名だった。
ぼくの興味を引いたのは、これら5人が全て
Litiu という町から来たというこである。更に注意したのはShandell
を除いて全ての家族人の出生地がBagniewzy
と記入されてる事だ。発音しようがないが、ここでは無理に「バグニエビチ」とでも読んで置く。Shandell
の出生地は因みに Sonagrodである。Litiu
と書かれた「リチュウ」の名はスラブ地方圏の地図を開いて探したものの、わずか三つの都市、Republic
of Belarus に位置した、Lody, Lida, Lidka しかなかった。それではルーツはべララス共和国に有るのか。ぼくは迷った。何かすっきりしないのである。過去に「白ロシア」の名前で知られたべララスはモスクワの西400キロ、確かにリスエニアと並んでロシア系ユダヤ人の故郷である。ぼくは念のためにべララスの首都、ミンスクにある「東欧ユダヤ人協会」に連絡、上の3っの町以外にリチュの名前に心当たりがないか、電子メールを送ってみた。二日後、2001年8月15日、同協会の代表者フランクリン J.シュワーツ氏から大変丁寧な返事が来た。翻訳して転載してみる。
ルーツはべララス共和国にあるのか ?
「お問い合わせの都市名はおそらくミンスクの西約16キロにある Litiva
を指しているかと思います。 同市は長年、多くの宗教団体が平和の内に互助共存されてきたことで知られております。 ミンスク近郷には
pogrom の災害は、過去100年起こっておりません、、、、、
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